40歳になって意外だったのは、20代がつい最近に感じられることだ。
今25歳の人からしたら、自分が40歳になるイメージなんて湧かないだろうし、それは気が遠くなるほど未来のことのように思えるはずだ。
自分も25歳の時には、40歳の自分を想像することはできなかった。
しかしながら、20代がほんの数年前のことのように感じられるし、感受性も思考の癖も当時からはほとんど変わっていないことに気付く。
当時いいなと思っていたことは今もいいなと思うし、当時共感できなかったことは今も共感できないことが多い。
きっと人格形成された後、人はそれほど変わらないのだろう。
または僕が単純に進化も成長もしていないだけかもしれないけれど。
だから20代の頃のことはわりとはっきりと記憶している。
とりわけ自分が新卒3年目の会社員で25歳だった2008年の秋は、とても印象的な時期だった。
無意識にそうしていたので当時は自覚がなかったが、この頃程に一人になることに向かっていったことは他になかったと思うのだ。
2008年の夏が終わると、僕はなんとなく憂鬱な気持ちをいつも背負っていた。
仕事に不満があるわけでもなく、職場やプライベートでの人間関係が悪いわけでもない。
ベタベタした人間関係は好まないが、気の置けない友達や仲間もいた。
なんとなく心が満たされていないのだが、何をしたら満たされるのかも分からなかった。もやもやしていた。
あまりにも安直だが、そんな時に日本で公開された映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を見たことが引き金だったように思う。
圧倒的な自然の中へ分け入ることで何かが見えてくるのではないか?
または、何も解決しないかもしれないが、何か圧倒的な癒やしやエネルギーに触れられるのではないか?
そう思うと心が高鳴った。この憂鬱から抜け出せるかもしれない。
それまでも自然あふれる場所へ出掛けることが好きで、その年もグループで上高地や奥日光の戦場ヶ原に出掛けたりしていたが、もっと先へ行くことにした。
そこに付き合える仲間はいなかったので、登山の装備をそろえ、一人で行くことに決めた。
最初に向かった山は長野県と岐阜県の県境にある焼岳(2,455m)だった。
既に11月に入っており、山頂近くが雪で覆われていたため途中で引き返したが、やはりそこは観光地ではなく完全なる自然界。
その頃少し敏感になっていたというのもあるが、神々しさを感じた。
その2週間後の週末に今度は那須の茶臼岳に登った。
天気は悪かったが、噴気孔から火山ガスがもくもくと出る様子が圧巻で、やはりここでも神々しさを感じずにはいられなかった。
さらに翌週末には奥日光の男体山に登った。
とても寒かったが、山頂から見渡す中禅寺湖が美しかった。
この頃は本当に何かに取りつかれたかのように一人で山に登っていた。時刻表を見て、一泊二日の旅程を考えるのもワクワクした。
次の週末は群馬県の榛名山へ向かった。その時は初めて友人も一緒だった。
一緒に行った友人は幼なじみで、彼もその頃憂鬱そうだった。
この榛名山が2008年最後の登山であり、僕の登山ブームはその後2014年まで続いた。
2009年以降の登山は仲間と行くことが増え、2008年の秋のように静謐な気持ちで自分自身と向き合う機会は減っていった。
登山を始めたことで何かが変わったのかは分からない。
一人で山に入る時間は、それは一人旅にも共通するのだが、“楽しい”という感覚とももちろん違う。
「一人で山に登って楽しいの?」と聞かれると戸惑うのは、何かをやりたいと思う動機が必ずしも「楽しい」という気持ちからくるわけではないことを説明しなければならないからだ。
一人で山に入る時間ほど清潔な時間はないと思う。
頭の中が透明な水や空気に包まれるようで、あらゆる雑念が細かい砂粒に変わり、空気中でキラキラと舞い消えていく。
それを求めてまた一人で山へ行きたくなるのだ。それが僕の20代後半だ。
実はもう何年も山に登っていない。
若かりし日ほどその時間を求めていないのかもしれないが、時々頭の中をクリアにするために、山に登ってもいいのではないかと思っている。
あの頃のように、雑念は透明な空気の中でキラキラと舞い散ってくれるだろうか?